公開: 2023年3月18日
更新: 2023年4月12日
戦国時代、キリシタン宣教師には、日本国内における宣教活動が許されていました。織田信長には、キリシタン宣教師がマカオから連れてきた黒人奴隷が、贈物として献上されました。弥助(ヤスケ)と呼ばれた黒人の侍です。弥助は、信長が本能寺で自刃(自殺すること)するまで、そばに仕え、信長の命令で、その首を本能寺から持ち出したと言われています。
信長が死に、豊臣秀吉が天下を取ると、キリスト教の布教は、制限されるようになりました。さらに、秀吉が死に、徳川の時代になると、家康は、キリスト教禁止令を出しました。仙台藩の伊達政宗は、豊臣の時代に配下の武士をローマへ送り、ローマ教皇へ謁見させることを望みました。しかし、彼らがポルトガルから九州に帰国すると、キリスト教禁止令が出ていました。
仙台藩に帰ったキリシタンの侍たちは、キリスト教徒であることを隠して、表面上は仏教徒として生活するようになったそうです。その子孫の一部の人々は、仙台藩を離れ、九州へ移住し、仏教徒の農民として生活したそうです。しかし、彼らは、キリスト教徒としての信仰を捨てず。神父がいない環境でも、250年間に渡り、代々、隠れキリシタンとして生きていました。
江戸時代の初期、九州の島原や天草に集まっていたキリシタンが、武装蜂起して、島原城を攻めました。さらに、天草に居たキリシタン達と浪人達は、若い天草四郎を中心に、幕府の軍と対峙しました。この戦いでは、戦国時代に九州のキリシタン大名であった大村藩の武士も参加して、幕府軍に対して頑強に抵抗しました。しんし、幕府軍は、天草四郎の率いた軍を壊滅させました。
この反乱に手を焼いた江戸幕府は、その後、厳しくキリシタンを取り締まるようになりました。このため、九州の各地に居たキリシタンは、表面的には仏教徒の農民として暮らす、「隠れキリシタン」として五島列島などに隠れ住むようになりました。九州の隠れキリシタンは、明治になってキリスト教が解禁となっても、隠れキリシタンとしての生き方は変えなかったそうです。